刺草の雑記帳

好きなもののことを書き留めるブログ。刺す草と書いて「いらくさ」。

ものと思い出

ここしばらく、一日に3~5個程度ものを捨てるようにしている。ひとまず先週までで1か月続いた。

本当に必要なもの以外捨てて持たないようにする、というのがここ数年流行っていて、そういう試みのひとつにたまたま触発された。ちょうど、風通しの悪くなりがちな部屋の隅に置いていたものがカビ臭くなってしまって凹んでいたり、身内に「近所で婚活イベントやるけど出ないの?」などとからかわれた際ふと「仮にそういうのに参加したとして、家に異性とか呼べる状態じゃないなこれ」と思ったりしたところだったのだ。人に言われてする掃除や片づけというのは無性に面倒くさいが、ようやく自発的に片づける気になった。

やってみて思うのは、やはり捨てるのが厄介な代物というのがあるな、ということ。大きいもの、丈の長いもの、いまひとつ捨て方のわからないもの。それらはどうしても後回しになってしまう。今後、できるかぎりそういうものは増やさないようにしたい。

とはいえ、だいたいのものは捨てるのがそれほど大変ではない。溜まっていたレジ袋などにこまごましたものを5つくらい詰めて捨てるだけなら、さほど難しくはなかったし、部屋はそこそこ片付きつつある。特に困っていないならやる必要もないだろうが(それなりに楽しいけれど)、片づけたりするのを苦行ではないと思えたのは収穫である。

 

昔使っていた、今は使わないものを捨てながら考えていたのだが、ものを捨てられない理由の何割かは、「覚えていられないから」だろう。ものを見ることで思い出す記憶があるなら、ものを捨ててしまえば忘れたままになってしまうのではないか。そのせいで捨てるに捨てられない。

もしなんらかの方法で、人間の記憶力を今よりずっと良くすることができたら。人は今よりものにとらわれなくなるのだろうか。それとも、「記憶している」と「思い出せる」は違うから、「思い出すきっかけ」の重要性は変わらないのか。

ものをとっておく以外で思い出を保つ、あるいは思い出を時々引き出す方法があるとすれば、それは多くの人と関わることだろうか。家族や友人、職場の人、近所の人たち。彼ら老若男女と積極的に関わる。そのなかで「あの子くらいの年の頃、あんなことがあった」「そういえばうちのおじいさんもそういうこと言ってたなあ」などと、昔を思い出す。人間は長いこと記録をあまり残せない状態で生きてきたはずで、あえて記憶に留めようとする必要など、ほんとうはないのかもしれない。