読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

刺草の雑記帳

好きなもののことを書き留めるブログ。刺す草と書いて「いらくさ」。

ポテトサラダの味付けは

今週のお題「調味料」

 

最近はしょっちゅうポテトサラダを食べている。しばらく前に、家族が育てたじゃがいもが収穫されたためだ。

我が家では出来合いのポテトサラダを買ってくることはほとんどなくて、家で作ったじゃがいもを茹でて作ることが多い。収穫後しばらくはしょっちゅう食卓に上る。具が入っていないことも多々あるので、本当はポテトサラダではなくマッシュポテトと呼ぶべきなのかもしれない。家族全員これが割と好きらしく、食べきれずに残ることはまずない。

 

茹でたじゃがいもを潰し、マヨネーズとマスタード(あるいはからし)、塩胡椒などで適当に味付けをして(酢や砂糖は入れない)、なにか具になるものがあれば刻んで混ぜる。さきほども書いたように、具は入っていないことも多いので、かなり調味料のお世話になっているメニューである。

 

ちなみに、「今日はポテトサラダにしよう」と思ってポテトサラダを作ることは稀だったりする。食事の支度をしにいくと祖母がじゃがいもを茹でるだけ茹でてあって、潰す作業と味付けは私に投げてくるパターンが非常に多い(味付けに自信がないらしい)。だから、ポテトサラダは私にとって「作るもの」というより「味付けするもの」だ。私が味付けをすると、マヨネーズ少なめ塩胡椒主体の味付けになることが多い。母が作ったものよりは芋らしさが強いものになる。

昨年ためしに買った粗挽きの塩胡椒(何種類かの胡椒がミックスされたもの)を、しばらく前に使い切ってしまったのだが、かなり好みだったのでポテトサラダに入れるためにも今度買ってこようと思う。

 

同じ家で同じものを食べていても、私と母ではちょっと違うものが出来上がるのだから、十人に茹でて潰したじゃがいもを渡し、好きなように味付けさせれば、やはり十皿とも違う味になるのだろう。よその家で作ったポテトサラダ、食べてみたいものだ。

 

私だけ苦手なもの

今週のお題「今だから言えること」

 

アニメやドラマ、映画等でよくある、「悪意を持つ誰かの言動によって、何も悪いことをしていない人が周囲から誤解される」だとか、「調子にのっていたら大失敗する」とか、その手の展開が小さい頃からすごく苦手だった。

一人で観ているならTVを消すこともできるが、家族でTVを観ている時はそうもいかない。TVのある部屋から立ち去れば立ち去ったで、家族から「また逃げた」などと言われて、それはそれで嫌だったし。

小学生の頃、学校の巡回映画でそういう描写のオンパレードみたいなものを観ざるをえない状況に追い込まれ、泣きながら観ていた記憶がある。はたから見れば「特に感動するとこでもないのに、変わってるなあ」と思われただろうが、それは感動の涙ではなく、苦痛を受けて流れる涙だった。他の人はどうして平気で観ていられるのかがわからなかったのを、今もたまに思い出す。

 

苦手があるからわかったことも、ないでもない。

アニメも実写もだめだったが、同じ内容でも小説や漫画なら大丈夫なので、おそらく人の声や音があるとだめなんだろうと思う。映像だけなら目の逸らしようもあるけれど(ちなみに、保健体育の授業中に病気や健康被害に関するビデオを観ていて気持ちが悪くなったことも数度ある)、耳がどうしても人の声を拾ってしまう。よくも悪くも、声の力は絶大なのだ。

 

「相手のことをしっかり理解したうえで嫌ったり殴り合ったりする方が、容易に解決できなくてめんどくさい(それはそれで趣深いけれど)」「調子に乗った状態ならまだしも、真面目にやっててその上で挫折する方が辛いかもしれない」など、苦手な展開を目撃しても気持ちの上で「受け身をとれる」ようになってきたのは、割と最近のこと。

それまでは耐えるか逃げるかしかなかったので、多少は進歩したと言っていいだろう。今だって家族が朝ドラの再放送を見始めれば急いで昼食を済ませて部屋を出るし、隣室から謀略渦巻く韓国ドラマの声が漏れてくれば音楽をかけて打ち消しているけれど。「苦手なものをなるべく観ないで済む権利」が確保できれば、人が観ているものにとやかく言う気はない。

そして、自分と同じものを苦手とする人は周りに見つけられなかったけれど、いないわけではないこともネットによって知ることができた。過敏さのせいで地味に困っている人は、私以外にも結構いるのだ。おかげで、だいぶ気楽になったし、こうして人に明かすことができる。

前々からほしいと思っている、あの本

ゆく年くる年2015「貼り付け機能でプレゼントキャンペーン」

 

年末にこのキャンペーンのことを知って、Amazonのほしい物リストを見返してみた。

そのなかでも特に、「人から貰ったら嬉しいよなあ」と思うもの。

 

名作童謡 西条八十100選

名作童謡 西条八十100選

 

 

 学生時代に何度か図書館で借りた本。八十だけど100選。

平原綾香のデビューシングル「Jupiter」に、カップリング曲として入っていた「蘇州夜曲」。それを聴いたのが、西條八十を知るきっかけだった。童謡「かなりや」、歌謡曲蘇州夜曲」「東京行進曲」などの作詞者であり、「人食いバラ」という少女小説を書いた人であり(田中芳樹の「創竜伝」シリーズでその存在を知り、数年後実際に読んだ。題名はホラーめいているが、ほどよくつっこみどころのあるゆかいな読み物であった)、音読すると不幸が訪れると噂の詩「トミノの地獄」を書いた人である(黙読してみると、確かに音読したくなるようなテンポのよさを感じる。さすが作詞する人の詩)。

ハルキ文庫の「西條八十詩集」は入手して、通学途中によく読んでいたし、今も時々読むのだけれど、「名作童謡 西條八十100選」の童謡にも気に入るものが多かった。しかしなかなかに値段が張るので、買いそびれて今に至る。値段分(CDアルバム一枚よりちょっと高いくらい、だろうか)の価値は確実にある本だけれど。

 

人と話していて「私は西條八十が好きです」と言う機会は、あまりない。話の流れにもよるけれど、たぶんだいたいの人がリアクションに困るだろう。有名だがなにぶん古い。

こうしてブログなどやってはいるが、ネット上で(日常生活でもそんな感じだが)人と交流することに消極的なので、同じ趣味の人と関わろうとすることもまずない。西條八十についても、ファンとしてはかなりライトな層の人間だから、たいして語れるわけでもないし。

だから、こういうちょっとした趣味を告白できるような人にもし出会えたなら、それは私にとってすごく得難い出会いだし、そういう人からこの本を貰ったりしたら、飛び上がるくらい嬉しいんじゃないかと思った。ほしい物リストにあった他の商品に対しては、「貰いたい」よりは「手に入れたい」という思いの方が強い。

 

「ほしいもの」にも「買いたい」「貰いたい」「奪いたい」「作りたい」「なにかの証としたい」など、いくつか種類があると意識する機会を得、西條八十のことも少し書けたので、それだけでもキャンペーンに参加した収穫である。

石磨き&石曇らせに挑戦

 

ここしばらく、暇なときはひたすら石を研磨していた。

10年くらい前に買ったタンブル3つ。これが妙に傷だらけだったり凹凸が多かったりして、長いこと「もったいないなあ」と思っていたのだが、諸事情で今年の東京ミネラルショーに行けず、引き出しにしまってある鉱物をあらためてじっくり眺めているうち、ふと思い立ってサンドペーパーで磨いてみることにしたのだ。本当は写真をつけたいところだけれど、どうにも上手く撮れなかったので文章のみ。

 

今回研磨した石は、高校生のころに雑貨屋で買ったものだ。

その後も少しづつ石を増やしていったけれど、あれらほど傷だらけだったり地味だったりするタンブルにはなかなかお目にかからない。当時の私があれらのどのあたりを気に入ったのかは今でも理解できるが、あの石たちと出会って手に入れたことは、ある意味奇跡だと思う。同じ種類でもっと見栄えのいい石は既に持っているけれど、それでも「いいな」と思って買ってきた石。少し手を加えることで見目がよくなれば。そう思い研磨を始めた。

 

はじめに磨いたのはラブラドライト。出っ張った部分(元々黒っぽい石だが、そこは特に色が濃い)と傷が目につきやすかった。

目の粗さが違う耐水性サンドペーパー数枚(セットで売っていたりする)を用意し、水をつけながら、目の粗いものから順番に使って磨いていく。近所で入手できた一番目の細かいペーパーは#2000だったのだが(ペーパーをかけ終わった後、家にあった金属研磨剤をつけて磨いて終わりにした)、市販のタンブルよりマットな質感になった。触り心地がよくなったし、出っ張りと傷が減ったおかげで、少々控えめな規模の寒色系の虹が綺麗に見えるようになったと思う。

 

次に研磨したのはルチルクオーツ。灰色がかった白い水晶に、蜘蛛の糸のようにかぼそい金色の筋が数本。ルチルクオーツとしては非常に地味。この石の地味さ加減は割と好きなのだが、金色が見える面をもっと目立たせることはできないかと考えていた。

以前見た川流れ水晶に似せて粗めに研磨し、一面だけ残して表面を白っぽく加工してみるのはどうか。そう思ったのだが、狙ったほど削れないし白っぽくならない(もとが白っぽいので削っても目立たないというのもある)。うちにあった耐水性でない紙やすり(#40、80~120くらい)も引っ張り出して使ってみたけれど、なんとなく曇りガラス風になった程度。以前見たものは、どれほど水に流され川の石にぶつかり続けたのだろうか。自然の力ってすごい。

 

もうひとつ、シトリンもやってみた。石自体は淡いが綺麗な黄色をしている。問題は傷が目立ちすぎること。表面の傷も大きいが、内部の傷が一部を白濁させたりぎらぎらと輝かせたりしてなんとなく騒々しい感じがするのが、まさしく玉に瑕だった。

この石は、傷を消しながら表面を曇らせた。大きい傷はまだ残っているが、表面が曇ったことで内部の白い部分が少し目立たなくなり、ぎらぎらも和らいだ。全体的に柔らかい印象になり、なかなか好ましい。

 

一度削ってしまえばもとには戻せないので不安はあったが、おおむねうまくいったといえる。今回石を磨いてみて、思った以上に楽しかった。タンブルという既に磨かれ丸められた状態からチャレンジしたのに存外時間がかかって(ひとつの石に、暇人の2日くらいが費やされた。傷を消しきれず納得がいかなくて、何度かやり直したりしたせいもある)、昔の人はよく勾玉とか作ったなあとしみじみしたけれど。

次はもっと原石に近い状態から磨いてみたい。石の硬度と水に弱くないかどうかを確認すれば、自力で磨けるかどうかがわかるので、少し調べて手ごろな原石を入手しようと思う。

 

ピンク色と「隗より始めよ」

 

「ダサピンク現象」ということばがあるらしい。女性向けのものをつくるとき、作る側の一部がむやみにピンク色を使うよう推してくることや、それによって(ターゲットとされる女性が求めていないような)ピンク色のものが量産されることをいうようだ。


残念な女性向け商品が作られてしまう「ダサピンク現象」について - yuhka-unoの日記

 

上の記事を読んで考えたことをまとめたが、あさっての方向に行ってしまった。

 

ピンク色に分類される色は、おおむね可愛らしい色だと思う。

「可愛らしい」以外にも、「清楚っぽい」「和む」「大人っぽい」「美味しそう(果物系・お菓子系・肉系など)」「けばけばしい」「チープ」「グロテスク」「毒々しい」等々、色々な感想を見る人に抱かせる「ピンク」があるのだけれど、「清楚で可愛らしい」も「毒々しくて可愛らしい」もたぶん成立するので、ピンクは可愛らしい色だと思う。「可愛い」の懐はとても広い。「可愛くないのが可愛い」などという矛盾さえ受け入れるさまは暴力的でさえある。「可愛い」は「好ましい」と言い換えてもよいのだが、後者に前者ほどの力強さはない。

いくらピンクが可愛らしくて好ましい色でも、「自分が身に着けたいどうか」は、また別の話。今は濃いピンク色のサザンカがあちこちで咲いていて綺麗だが、同じ色の服があったとして、あの目立つピンクを身に着ける勇気はない。

 

ピンク色の女性向け製品などありふれているので、選択肢が狭いものの場合はピンク色のものを使わざるをえないことも多いのだけれど、服は選択肢が広いのでそうもいかない。 ピンク以外にだって、女性が好みそうだと考えられる色はいくつもあるのだ。

もし、ピンク色の服を着た女性を見るのが好きな人(男性かもしれないし、女性かもしれない)がいたとして、その人はどうすれば今よりピンク色の服の女性を増やせるか。

権力者になって強制的にピンクの服を着せる、というのもひとつの手だろうが、それでは後世までピンクは忌まわしい色として記憶される。かえってピンクの使用を禁じた方が、人々はピンクを求めるだろう。

などという現実離れした話はさておき(現実にも無自覚かつ小規模ながらこういった現象は起きていて、それがおそらく「ダサピンク現象」なのだけれど)。

その人が男性だった場合は特に、女性に直接「こういう服がいいんじゃない?」と推しても、「ちょっと違うんだよなあ」と思わせるにとどまる可能性が高い。だいたいにおいて女性の方が(好きでも嫌いでも)ピンク慣れして目が肥えているのだから。ソムリエにワインを贈るときとか、魚屋を営む人に魚料理を振る舞うときくらいの覚悟が必要だと思う(私なら相手の専門外のものを選ぶだろう)。

ピンクに詳しい人が多いであろう女性の場合でも、相手の好みとずれていれば、デザインや品質がどれだけよいものでも心から喜んではもらえないはずだ。自分がピンクを好きなように、相手にもこだわりがあることを認め尊重しなければ、いずれ自分も自分の好きなものも否定される。

 

数年前に沖縄の紅型を知って以来、(買うお金はないけれど)紅型の着物に憧れているので、正直なところ老若男女がああいうカラフルで華やかな服を着ていてもいいのにと思っている。いつか紅型を着る日が来ても、私が浮かずに済む(すごく他力本願な気はするが、これでも日ごろからなるべく明るい色の服を着ようとしたり、大きめの柄があるものを選ぶなどの小さな積み重ねはしているのだ。少しでも紅型みたいな服の人が増えてほしいから)。

すべての女性をピンク色好きにすることはできない。でも、気軽に明るい色や淡い色(必ずしもピンクでなくてもよい)を身に着ける男性や年配の人が増えれば、ピンクの服の女性はきっと今より増える。ピンクを「(若い)女性らしい色」として意識し、恥ずかしがってあまり身に着けない女性が、気負わずにピンクを選べるようになるだろうから。あとは女性の側が勝手に、自分に一番似合うピンクを身に着けてくれる。作るのも当事者である女性に任せた方が、女性の納得のいくものができる可能性が高い。

ひらひらした服を着た女性をもっと見たい場合も同様である。ベルサイユのばらキャンディ・キャンディなどをイメージしていただければわかりやすいかと思う。男性も割とひらひらしている。

好きなものを広めたいなら、どういう立場であっても地道な努力が必要。

 

ピンク色の服を着た女性になんとなく惹かれる男性あるいは女性が、もしこれを読んでくれているとしたら。

あなたがピンクなどの明るい色、淡く可愛らしい色の服を着て、それが仮にしっくりこなかったとしても、あなたが着ていることで安心して、もっとそういうのが似合う別の誰かが着てくれるかもしれない。そうしてピンクが今以上に「女性向けの色」でなく「一般的な色」になれば、もっとピンクの服の女性は増える。結果的にあなたが得をするのだ。いわゆる「隗より始めよ」である。